Art Incubation Program
上田麻希 展覧会「嗅覚の力学〜メディウムとしての空気〜」

開催概要
2025年度 CCBTアーティスト・フェローである上田麻希によるプロジェクト「Olfacto-Politics — The Air as a Medium(嗅覚の力学 ─ メディウムとしての空気)」は、匂いを手がかりに「コモンズとしての空気」を学び、見えない空気を見える化・体験化する複合的な試みです。本展覧会では、そのプロジェクトの全貌を一挙公開します。 プロジェクト「Olfacto-Politics — The Air as a Medium(嗅覚の力学 ─ メディウムとしての空気)」は、「教育」「リサーチ」「表現」という三つのフェーズから構成され、2025年度を通じて継続的な活動を続けてきました。ここで扱われる匂いは、私たちが日常的に思い浮かべる「良い匂い」だけではありません。渋谷から漂う下水道の悪臭から、硫化水素のように人を死に追いやる危険な匂いに至るまで、都市公害や気候変動といった社会問題と結びつく匂いにも焦点を当てています。 私たちの周りには多様な匂いがあふれていますが、嗅覚について体系的に学ぶ機会はほとんどありません。そうした背景から、プロジェクトの「教育」フェーズにおいては、嗅覚ゼミ「SMELL LAB」を立ち上げ、レクチャーやワークショップを通じた学びの場を創出しました。

嗅覚ゼミ「SMELLLAB」の様子(撮影:斉藤純平)

嗅覚ゼミ「SMELLLAB」の様子(撮影:斉藤純平)
続く「リサーチ」においては、渋谷の街を主なフィールドとし、リコー社によるFAIMS(イオン移動度スペクトロメータ)を用いて、匂いを客観的なデータとして計測する試みを行いました。
匂いが人間のみならず、動植物にとっても重要なコミュニケーション手段であることに着目し、犬の嗅覚的な認識を記録する計測実験も実施しました。これらの取り組みを通じて、極めて主観的であり、やがて消えていく儚い匂いを可視化する方法を探るとともに、「見えないコモンズ」に対する新たな視点を生み出してきました。

仮説テントを「満員電車」に見立てた計測実験(撮影:斉藤純平)

千代子(犬)の計測実験(撮影:斉藤純平)
そして、最終フェーズ「表現」における、2026年1月に夢の島熱帯植物館で開催する展覧会「Aerosculpture ver.2『匂う森』」では、自然環境がもつ匂いに人工的につくり出された匂いが介入することで、新たな嗅覚体験をインスタレーション作品として展開します。

夢の島熱帯植物館 平面図 スケッチ

Aerosculpture ver.1(撮影:Taniguchi Takumi)
本展「嗅覚の力学〜メディウムとしての空気〜」では、こうした取り組みの軌跡を公開するものです。 テクノロジーによって可視化された「コモンズとしての空気」に触れ、私たちが共有している環境について、新たな視点から考える機会となるでしょう。
プロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 〜メディウムとしての空気〜)」
匂いを手がかりに「コモンズとしての空気」について学び、見えない空気を見える化・体験化する複合プロジェクト。レクチャー・ワークショップからなる学びの場の創出、極めて主観的な感覚である嗅覚をテクノロジーで測ることで嗅覚世界を可視化するリサーチ、空気の循環を表現する空間作品を制作・発表する三つのフェーズから成る。人間を含む全ての生物が多種多様な情報をやりとりしている「空気」から、生物多様性やバイオームへの思考を促し、世界を捉える新たな視点を生み出すことを目指す。

プロジェクト構成

フェーズ1
嗅覚ゼミ「SMELL LAB」

フェーズ2
リサーチ(空気の可視化)

フェーズ3
展示
アーティスト・ステートメント(文=上田麻希)
空気はコモンズ(共有資源)である。息を吸って吐いて生きる私たちにとって、ここまでは私ので、そこからはあなたのね、と線引きできるものではない。コロナ禍は我々にそのことを改めて認識させた。 もし空気を媒体(メディウム)と捉えるなら、我々人間含むすべての生物がそこでたくさんの情報をやりとりしている。酸素や窒素などの気体、匂いやエアロゾルなど化合物やウィルス、さらには科学では説明しにくい「気」のようなものも内包する。このプロジェクトは匂いを手がかりに、コモンズとしての空気とその循環を可視化し、タンジブルに体験できるようにするものである。 私は嗅覚アーティストとして20年以上、匂いに携わっている。匂いや香りには、人の感情や記憶に訴えるという興味深い側面がある。しかしその点が誇張されてフォーカスされがちでもあり、香りと情緒を紐づければ、モノやサービスが売れやすくなるとも思われがちである。見方を変えれば、息をせねば生きられない我々にとっては、無意識に操られるということも意味する。しかも過密な都市には、良くも悪くも人工的な匂いで溢れかえっている。嗅覚を通して体内に入ってくる揮発性物質を広義の匂いと捉えるなら、それは生理現象をも操り、時に健康を害し、人を死に追いやる側面もある。 先日埼玉八潮で起きた下水陥没事故でも、卵の腐ったような匂い(硫化水素=金属を腐食させる)が辺りに充満したといわれる。30年前の地下鉄サリン事件で使われたサリンも、揮発性の有機リン系化合物であり、異臭がしたと被害者は語っている。世界有数の人口密度を誇る東京の過密・密閉下では、例えばマンション下の老舗うなぎ屋と上の新参住民との間で問題なるなど、匂いは争いの火種として常に潜んでいる。そして普段はコントロール下にあるように見える場合でも、災害時や非常時には必ず悪臭が課題となる。 コモンズとして空気を捉えるなら、そこで生じる様々な問題もコモンズであり、グローバル・コモンズでもある。昨今の東京の夏は危機的に暑い。気候変動、温暖化問題はもう待ったなしの切実な問題であろう。私はここで、匂いで人の記憶や感情に訴えるよりは、テクノロジー(デジタル嗅覚)の力を借りて客観的なデータを示したいと考える。 都市とは、自然からその匂いを奪ったエリア、いわば人間の縄張りである。東京のような大都市に人が生きるようになってから、せいぜい100年ほどしか経っておらず、東京はさながら壮大な嗅覚の実験場である。そんな東京を舞台に、このプロジェクトでは「生きる(息る)」ことを問い、嗅覚の知性とレジリエンスを養う場としていきたい。
CCBT「アート・インキュベーション・プログラム」とは
CCBTのコアプログラムのひとつである「アート・インキュベーション」は、クリエイターに新たな創作活動の機会を提供し、そのプロセスを市民(シビック)に開放することで、都市をより良く変える表現・探求・アクションの創造を目指すプログラムです。公募・選考によって選ばれる5組のクリエイターは、「CCBTアーティスト・フェロー」として、企画の具体化と発表、創作過程の公開やワークショップ、トークイベント等を実施し、CCBTのパートナーとして活動します。
Players

上田麻希
Ueda Maki
Olfactory artist
Since 2005, Ueda Maki has explored the intersection of scent and art, creating works that use smell and becoming a pioneering figure in the field of olfactory art. Since 2009, she has taught at institutions around the world including the Royal Academy of Art in The Hague, nurturing a new generation of olfactory artists. Nominated five consecutive times for the Sadakichi Award for Experimental Work with Scent at the Art and Olfaction Awards―an international hallmark of olfactory art―and winner of the award in 2022, Ueda is also a recipient of the Commissioner for Cultural Affairs Award 2024. Currently based on the island of Ishigaki, she runs an olfactory art laboratory engaging in education and tourism while exhibiting and running workshops around the world.